日常茶飯事という言葉が意味する通り、常日頃当たり前の事。
あたかも飯を食う如く出勤し、あたかも飯を食う如く仕事をし、あたかも飯を食う如く帰宅する。
あたかも飯を食う如く飯を食い?あたかも飯を食う如く風呂に入り、あたかも飯を食う如く寝る。
社会人になって、そんな日常を何ひとつ疑わずに生きてきた。
あいつに出会うまでは。
そう、ぼく達は出会ってしまったのだ。
日常の中の非日常(サバイバルゲーム)に。
常日頃に非ず。
刺激の連続だ。この刺激こそ非日常を非日常たらしめる所以である。
しかし非日常も慣れてしまえばどうと言うことはない。それすらも日常に成り下がってしまうのだ。
などと御託を並べているが、要するにあれだ
飽きてしまったのだ。
日常、非日常、どちらも「常」を中心とした、二つの事象だ。いや、1つの事象とその反対というべきでもある。
「常」とはすなわち、そこにいつも存在しているもの、原理原則あるいは、ルーティーン、当たり前・・・。戦場と同じように常に変化する日々の「常」においても、原則が存在する。
日々の「常」には何億万通りの答えがあろう、しかし、米陸軍「OPERATIONS」(2008版)では戦いの「常」をこういう。
”戦いは守るべき9つの原則(目標、攻勢、集中、力の節用、機動、指揮統一、警戒、奇襲、簡明)がある”
と。
【戦術の本質 一部意訳】
日常とは言い換えるとそれは生きること、いや生きてきたことすべてを包括する言葉だと言っても過言ではなかろう。
それぞれにそれぞれの生き方があるように、日常もまた数えきれない数多の形がある。また望まれる形望まれない形が狭隘な世界にはある。愛と勇気だけが友達の我らの友人は詠う、「忘れないで、生きる喜び」と。「生きる喜び」とは何か?何が私たちの生きる喜びなのか・・・。そう、それこそが目的であり、目標である。
いかなる任務の遂行にあたっても、期待される結果とその高価を明確に理解しなければならない。目標達成に無関係な行動はこれを避ける必要があり、また具体的な方法よりも、むしろ期待する成果を強調することで戦力を集中できるし、「個人の自主積極性」を促進もする。
”すべての行動を、曖昧でなく明確に定義され、決定的でかつ達成可能な目標に向けて指向せよ。”
【戦術の本質 意訳】