日常という、とても大きな波の中にで私たちは揺蕩っている。それはまるで幻のような安息の地を探して旅する冒険者のように、またあるいは、波間を漂う海月のように。
しかしいずれにせよ、進む方向を選べる余地があるのは最大の幸福ではないだろうか。海月にとっても、冒険者にとっても。
進むべき方向とはすなわち目標。目標が定まったのちは進むだけである。
「進む」とは戦いの原則において、「攻勢」そのことである。戦いとは意志と意志のぶつかり合いであると説く。戦いにおける、その心とは、「主導権を奪い、維持し、拡大する」こと。敵に我々の意志を強要し、状況全体を支配しよう。さぁ、勝利は目前だ。
『我は斯くする。よって敵をして斯くせしむる』
——モルトケ将軍
(戦術の本質 一部意訳)
日常に生きる私たちは、常に「攻勢」に出れるわけではない、時には後の「攻勢」のために引き、また時には無慈悲な運命を受け入れる必要がある。
しかし如何なる運命、いかなる神のいたずらにあっても忘れてはならないことがある。それは「今が好機か、今が為すべき時か」ということである。戦いとは決勝点に対する戦闘力の集中競争そのものである。野球においてヒットを打つことは決勝点につながる重要なファクターではあるが、ヒット数の差が勝利数の差ではないのだ。
戦闘における「集中」とは「時間」もしくは「場所」に、あるいはその両方に集めることである。
『戦闘力は兵力数の2倍に比例し、集中すればするほど圧倒的に優勢となる』
全体の劣勢を問うのではない、今君の決勝点にすべてを「集中」せよ!
(戦術の本質 一部意訳)
日常とは何なのか。それは停滞を表す、常に唾棄すべきものなのか。
否、日常とは我々の選んだ先の帰結なのであり、その過程には止めどない濁流のような選択が存在し、それは言い換えれば、相手とのまた自分との闘いであったはずだ。戦いには論法があることもまた日常ではあるがそこには燦然と輝く英雄たちの帰結なのである。
時にその英雄たちも数の原則に悩まされた。そう在るものはいずれなくなるのだ。
戦闘力はまるで食品のように期限があるのだ。戦いは決定点に対する戦闘力の集中戦争ともいえます。また集中には2点ある。”場所”と”時間”である。
場所に集中するとは多数の決定的地点に対して戦闘力を指向することである。
時間に集中するとは一つの決定的地点に対して戦闘力を指向することである。
有限の戦闘力を最大限に活用して勝利せよ!
(戦術の本質 一部意訳)
日常から私たちは完全には離れることができない。そうそれは、太陽が、光がさすことで必ず、ことの大小にかかわらず影もまたできることににている。
すべての事象は環のごとくつながっている。戦闘力もその原則から離れることはなく、6個の戦闘機能(移動・機動、作戦情報、火力、戦闘維持力、ミッション・コマンド、防護)にリーダシップとインフォメーションを加えた8つの要素は全てつながっているのだ。
その中でも、効果的な機動は戦力の分散、集中、戦闘維持など8つの要素全てに関わってくる重要な要素である。
しかし忘れてはならない、ただ動くのではない、「機動」は柔軟な思考、柔軟な計画および柔軟な作戦を要求する、ということを。
(戦術の本質 一部意訳)